律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。
彼らを戒めて、あなたの律法に引きもどそうとされました。けれども彼らはごうまんにふるまい、あなたの戒めに従わず、人がこれを行うならば、これによって生きるというあなたのおきてを破って罪を犯し、肩をそびやかし、かたくなになって、聞き従おうとはしませんでした。
もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
わたしの定めを彼らに授け、わたしのおきてを彼らに示した。これは人がこれを行うことによって生きるものである。
しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。 そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、
わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。